伍番街スラム・5
「……『暖かい』部屋の中なら、な」
室内である。
白い息、である。
記憶を辿ったところで、目の前の金髪灰瞳の男――ユーティスの調子がおかしかった事なんて、大して思い浮かびもしてこないだろう。何時も一定にふらふらと、波を漂う海月に似てその存在感はどこか透明に近く。笑えば、朗らかな陽気を印象付ける。
つまり、そういう奴だ。そういう男なんだという結論になる。ただ、こういう場合は少々ムカッ腹も立つというだけで。
ナギは元々、仕事と私生活は分けて考えたいという、おふざけな見かけに反した几帳面な気質を持っている。どういうわけかこれは生まれ持ってものだから、気が付いた時には自分でもどうしようもなかった。だから正直に言えば、気儘な野良猫同然の生活態度とは、基本的に重なるところがない。それでも俗によばれる普通の生活スタイルとは、かなりかけ離れているのだけれど。なぜ今までそのことを指摘せずに来たのかといえば、第一に、闘技場は仕事ではなく娯楽と考えていること。第二に、朗らかで緊張感のないこの笑顔に毒気を抜かれていってしまうという主張が持ち上がる。
ごく有触れた廃館は、それ程広くはない。けれど空間を区切るというにはギリギリで間に合わない穴の開いた壁と、室内に置かれるはずの生活の品々が圧倒的に不足している。本物の寒さの中で、持ち主の影も感じない視覚的な寒々しさは、眼を通して体温を奪っていく。
「――ったく」
忍耐には職業柄自信がある。だからって、これ以上留まるのは不毛すぎる――と、背中に走った寒気が、凍りかけた脚を促した。そのままツカツカとした靴音を愉しむ余裕なんてものはおかまいなしに、ドアノブに手を伸ばす。対照的に軽やかな足音に能天気なハミングが聴こえるのは、きっと幻聴だろう。耳は千切れんばかりに痛み出していたから。そして見守ったドアは何事もなく開ききって、いつもどおりの顔をした男が現れた。
体力には職業柄自信がある。だけれど、この時は軽い眩暈がした。笑顔になるユーティスを確認しているナギの眼からは、輝きが抜け落ちていた。――ついでにというわけじゃないが、諸々も抜け落ちていく。
「あっれー? ナギさん、来てたんだー。ごめんねー、寒かったでしょー?」
「――ああ……」
激しい脱力感に襲われつつも、どのように話を切り出すかを考えいるところに慣れた手付きで上着を掛けられた。薄々、こういう仕草の中に育ちが垣間見える。上着から伝わってくる熱は、体温の違いを際立たせた。早々に場所を移すべきだ。なのに漏れ薫る香りが鼻先を掠めた瞬間、片腕は向けられた背へと伸びている。予告なく腕掴まれ、ユーティスの瞳は困惑の色を浮かべる。驚いたという言葉が遠くに響いて聴こえた。こっちが困ると言ってやりたい。早々に場所を移すべきだ、そう思ったのは確かなのに、なんだか面倒なことになってしまった。
「お前、何処に行ってた?」
「え?」
戸惑ってみせているのは、なぜ今更そんなことを聞くのか?と、いった意味だろう。かなり出回っている種の香りだ、使うのが女だとすればどういう生活の女か大まかな見当はつく。ナギはユーティスの保護者ではないし、ユーティスも他人の加護を受けるような子供ではない。百も承知、当たり前のことだ。承知のことで機嫌を損ねられたとしても、痛くも痒くもない。そんな事より何もする事が適わないという事の方が、余程耐え難い。
ナギは重ねて尋ねる。それで何かが変るとか、そこまで思想的にはなれない。けど、放置することもできなかった。
「友達の所、ね」
「そう。友達の所」
「女だろ?」
「うん」
あっさり肯定され、解っていたはずの掴みどころの無さに絶句させられる。過去形かよと思い、言葉をつぐんでいる合間にユーティスは横を擦り抜けて室内にユーターンする。追ってナギも足を踏み入れたところで、ドアが閉じられ。
「言っておくけど、揉め事を起こしたことは一度もないんだよー? 僕は求めに応じてるだけだしねー」
「後学の為に訊いてもいいか?」
「いいよー」
「最短は?」
「二日ー」
痒い。何となく察せる部分は察しているつもりで居たが、本人から直接聞くと案の定というか――どうもむず痒い気分になってしまう。堪らず冷えた指で頭を掻く、少しだけすっきりするのではないかと期待した。最長を聞いても、と思うと口から溜息が漏れる。こいつはバカヤロウじゃなくてオオバカヤロウじゃないんだろうか。
「お前なぁ……ラブラブな相手がいるじゃねぇかよ」
「うん。あの人のことは大好きだよ」
咲き始めた花のように綻ぶユーティスの表情は、場違いなほど朗らかだ。
「僕のことなんか、洟も引っ掛けてないからね」
「勝手に決めんなよ。何でお前にそんなことが判る」
「一に一を足せば二になるとか。熱湯に手を突っ込めば火傷するとか。確かめなくても判ることってあるでしょう?」
それはそうだろう、でも解らない。それとこれとが一緒に語れることなのか。煙に巻かれる。だが、それが解っても追求することで変るものじゃ多分ない。
先が閉じた一瞬、両目を絞るように閉じ、開けると顔が寄せられている。驚きで、思考が停止すると、ユーティスはそれにも構わず微笑みで語りだした。
「僕なんかにまでこんなにも優しいあなたも大好きだよ。僕が望んで手を伸ばせば、しっかりと掴んで離さないでいてくれるんだろうね。――でも」
雪空の色をした瞳が、穏やかにナギを見詰める。
「その腕は二本しかないってことも、あなたはちゃんと知っておかなきゃ」
「……何、を」
言葉も行動も突飛過ぎる。芸術家気質ってやつは嫌いじゃないが、感覚を共有できる気はしない。すらすらと一通りのことの言い終わる迄は、混乱はをかなり引きずって聞く羽目になった。そして視界からユーティスはずれていき、続く感覚に反射の鳥肌が全身を駆け上がる。
「――おまっ……!」
「うっわー」
直ぐに離れるのは望み通りだ。が、上がった声は本当にわざとらしい。鳥肌を納めながら渋い顔を作ると――さあ、この話はもう終わりだ――そう告げる言葉を吟遊詩人は口にした。
「――僕が、『言いくるめ』が得意なのは知ってるでしょう?」
「……お前のは、『煙に巻く』っていうんだ」
ひとつ溜息をつき、ナギは吐き捨てる。
奢りなら、この待ってた間のことも、口にした言葉も、やりきれなさも全部吹っ飛ぶぐらい飲み倒してやろう。それで諸々含め後悔させてやろう。指を突きつけ宣言すると、ユーティスは軽やかな足取りで部屋を後にする。その姿が視界から一応消えた後、感覚の残っている耳に手をやると、兎の人形がじゃらりと揺れた。
「……んな言葉が聞きたかったんじゃねぇよ、馬鹿野郎」
ひとつ首を振り、ユーティスの背を追って歩き出せば、もうそれは、それだけの、それきりの話だった。
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